「88年頃、インドの国産車で道路を走っていたのは、アンバセダくらい。それに取って代わったのがマルチ・スズキ。」
「鉄鉱石市場で、中国が台頭してきたのは、98年頃からだったかな。その後は手当たり次第に高値で買い漁っていたね。今思えば、それが世界的な資源争奪戦の始まり。それを間近で見せ付けられた瞬間、中国の時代だなと。」
当時のインド、中国を熱く語る砂田学の姿に、誰も違和感を覚える事はなかっただろう。ただひとつ。ここが、江蘇省太倉市にあるプレス屋ということを除けば・・・。
それもそのはず。砂田は以前、東京の大学を卒業後15 年間、鉄鋼原料に関わるバリバリの商社マンだった。88年インド・ゴアに降り立って以降、2000年を最後に2度、計6年間に渡る駐在で、インドの鉄鉱石に関わった。言わば、今日を代表する二大巨頭を交え、最初の資源争奪戦を繰り広げた、当事者の一人でもあるのだ。
そんな砂田に転機が訪れたのは、インドから帰任後間もなくのことだった。
それは、尊敬する義理の父、㈱富士製作所(本社:岡山市)社長からの海外進出の誘いだった。
「まさか自分がこの道に入るとは思わなかったよ。でも海外なら、人生を賭ける価値が十分あると思ったから。」
過去のキャリアに縛られない、開拓精神の旺盛な道産子にとって、考える時間など必要なかった。奥さんの反対もよそに、義父と2人だけで決めた決断だった。
「まさにゼロからの出発。それから数年間、朝から晩まで金型職人でもある社長にみっちり鍛えられましたよ。そのお陰で、今の自分が存在する訳ですから。社長にはとても感謝しています。」
最後まで、義理の親子を支え続けたのはただひとつ。共通の夢、「海外への工場進出」だった。
そして現在。義親子の夢、蘇州太富精密模具有限公司は、もうすぐ4年を迎えようとしている。中国の大地に大きく根を張る姿は、もう一人前のプレス工場だ。
「たまに社長も来るのですが、中国の発展の速さにいつも驚いて帰って行きますよ。ただし、せっかく中国に来ても、そこは根っからの職人。工場の現場で仕事ばかりしていますけどね。」
義父の目に映る太富精密。そこには、若かりし頃の自分と富士製作所があるのだろう。
そんな仕事一途な義父とは、「性格や仕事に対する姿勢などが全く対極にある。」と笑いながら明るく語る砂田。
「次は絶対インドだね。インド・中国・日本。この3カ国でビジネスができれば、どれだけ面白いだろう。」
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